はい、十一月です。最近では世間から「癒し」などと罵られる、いや、もてはやされる毎日に、如何なものかと思いつつ日々を暮らしております。それならいっそ「癒し」について考えてみるのもいいかなと昨日の夜、寝ながら思考を巡らせたもので、今回はその辺から。「癒し」と一言で申しましても色々ありまして、まぁそれを大きく二つに分けると、「差し引いていく」ものと「付け足していく」ものとになるでしょう。「差し引いていく」ものは、分かりやすく言えば休暇です。あれをしないこれをしないと自分を休ませて心身ともに癒されるわけです。「付け足していく」ものは快感です。日常に無い、もしくは不足している何かを、五感を使って心身に取り入れていくことで癒されると言ったところでしょうか。
さて、休暇は取れないが癒されたいという我が儘放題の現代人にとって、やはり大切なのは快感です。それではこの快感についてもう少し深く考えましょうか。快感を感じるのは肉体と精神です。肉体的快感と精神的快感を切り離して考えたくないという感情論的な思考の方は、ごめんなさい、この先を読まない方がいいでしょう。ここで言葉という道具しか使えない僕には、そういう方の為の表現方法を持っていません。話がそれました。肉体と精神を、快感を受け取る別の経路と考えて、先へ進みましょう。
まず、肉体的快感を語る上で、五感の中から強引に触覚だけを取り出して考えます。触覚から感じ取る快感は、くすぐったいと痛いの間にあると思われます。指圧やマッサージを受けたことのある方なら分かるでしょう。くすぐったいと痛いの間の感覚を。あれが気持ちいい、つまり快感であるわけです。ここで一つ興味深い話を。実は人体に痛覚はあるがくすぐったいという情報を受け取る感覚はないそうです。ではどこで感じ取っているかというと、痛覚だというのです。つまり、痛覚に与えられた微量の情報を肉体はくすぐったいと感じているのです。くすぐったいと痛いの間と言いましたが、実はこれは同一線上のもので、肉体的快感を求めるというのは、痛みへの突入だったわけです。恐いですねぇ、人間の性というヤツは。
さあ、肉体は痛みに向かっていくことで快感を得ていたわけですが、精神の方はどうでしょう。精神的快感の中心はやはり愛でしょう。愛するか、愛されるかは別の話で、とにかくこの愛という感覚で人は精神的快感を得ようとするわけです。しかしながら、この愛というのも曲者で、ただ気持ちいいだけのものではありません。愛するが故の痛みや苦しみ、慣用句を使えば胸が痛いとか胸が苦しいとか言われるあれです。別の言葉で言えば、切ないとか寂しいなども愛があるが為です。ここでも肉体同様、快感を求めることが同時に痛みに向かってしまっていると言えるでしょう。
では、愛の痛みとはどんなものでしょうか。「君が僕を愛してない」とか「僕が君を愛してない」というのが、痛みに繋がると思っている方もいるのではないでしょうか。残念ながら、そうではないでしょう。いや、それでは足りないと言った方がいいでしょうか。恐らく愛の痛みの本質は、「君は僕でなく、僕は君でない」ということ。つまりどんなにそばにいても、どんなに心を通わせても、君と僕は別々の器、別々の肉体、別々の精神の中に存在するということです。でも、だからこそ愛おしい。だからこそ君の美しさに、僕の美しさに気付くのです。それは、君の醜さや僕の醜さを覆い隠すほどに魅力的で、その先に痛みが伴うと知りつつも、愛に近付こうとする要因なのです。
君と僕はこんなに違うから、抱き締めた時にぴったりくるのです。それはまるでパズルのように抱き締めて、離さないでいられるのです。触れあう心が痛むのは、君と僕とが違うから。だけど人はそれを愛と呼んで、昔から、そして世界中でこの快感に吸い寄せられていくのです。
さてさて、前回の「ひろみさんの口に合う詩」の話ですが、色々やって分かったことを皆さんに。ひろみさんの口に合うためには、ひろみさんに合わせて、ひろみさんになって書くのがいいのかと模索したりもしました。でも違いました。ひろみさんと僕はこんなに違うのだから、僕が僕のまま書くこと、それをひろみさんがひろみさんのまま歌うことが、「ひろみさんの口に合う詩」に繋がるのです。などと、引っぱった割にはあっさりした答えですいません。今回のを読んで、僕が普段何気なく考えていることが、僕の作品にそのまま繋がっていることを感じ取って頂ければ幸いです。 |